Kさん/営業部門 1997年入社 40代
挑戦なくして、成功はない。
何度も失敗しながら、自分で考え、未来を切り拓く人材になることが求められる。
新人時代、どうやって育てられましたか?
「え、もう?!」というタイミングで仕事を任せられ、実践を通じて仕事を覚えていった思い出があります。上司・先輩に「どうしたらいいですか」って相談することあるじゃないですか。当社では基本的に「オマエはどう思うの?どうしたいの?」と返ってくるんです。もちろんヒントやアドバイスは貰えますが、自分で考えることを叩き込まれました。
想像していた商社の仕事とは違いましたか?
そうですね。そもそも、学生時代のテストには必ず正解が用意されていました。ビジネスの世界に正解はありませんし、自分で切り拓くしかありません。このギャップに慣れるというか覚悟が持てるまでには、随分と時間がかかりました。それに、商社の仕事は思っていたよりも地味というか泥臭いというか…。お客さまからの信頼が大事なので、地道な積み重ねばかりですね。
Kさんといえば、大型案件をどんどん決めていくイメージです。最初から活躍していたのですか?
いやいや、最初の8年くらいは空回りばかりしていました。「使えないヤツ」と思われていたはずです(笑)。今思えば、忍耐強い上司に恵まれたんでしょうね。さまざまな経験をさせてもらって、社内外のいろいろな人に助けられながら、少しずつ出来ることが増えていったと思います。失敗もたくさんしましたし、自分で言うのもおかしいですが遅咲きだと思います。
これまでで、一番思い出に残っている仕事はなんですか?
中国のお客さまに、総額で約100億円の工場設備を納めたプロジェクトですね。このお客さまには昔から他の三井物産グループ会社が原材料を供給していて、当社を紹介してくれたことがきっかけでした。先方の社長からは「ウチは日本かドイツの設備しか使わない。そして、日本の設備は三井物産からしか買わない」と。ありがたい話なんですが、その歴史と期待がとにかくプレッシャーでした。最終的には、マイナス25℃という極寒の中で設備メーカーさんたちと一緒に工場を立ち上げたんですが、今となっては良い思い出です。
100億円プロジェクトですか!なんだかワクワクしますね。待ってました。
数十社にのぼる調達先の選定、各方面との厳しい条件交渉、刻々と変わっていくスケジュールの調整、毎日のように発生する想定外のトラブルへの対処、文化とか常識の違いによって噛み合わないコミュニケーション、膨大な書類との格闘…。とにかく毎日、何かしら勃発するんです(笑)。おかげで何かウッカリ大事なことを忘れているような不安に駆られて、眠れない夜を何度も経験しました。何とか乗り切ったことで自信になりましたし、並大抵のことでは動じない度胸をつけたつもりです。
海外法人の社長に抜擢されました。何か変わりましたか?
またもや無茶ぶりですよ(笑)。ある日突然、「再来月から行ってくれないか」と言われたんです。この歳で社長になるとは思っていなかったので驚きました。まだ就任して2ヵ月しか経っていませんが、すでに自分の一言一句への重みを痛感しています。もしも自分が間違った方向に舵を切ってしまったら、従業員とその家族を不幸にしてしまうわけですから…。この国での成功は当社の10年後にとって重要だと確信しているので、持てる力のすべてを注ぎ込んでみるつもりです。
人材育成する立場になって、こだわっていることはありますか?
若い人たちが積極的に挑戦できる雰囲気をつくってあげたいと考えています。自分の場合、空回りし続けた最初の8年間も大型プロジェクトを手掛けているときも、上司がいつも信じて任せてくれました。失敗することもありましたが、おかげで成長できたんです。この文化を当社の良いところとして引き継いでいくこと。それが自分の役割だと認識しています。部下には「ミスを恐れず挑戦しろ」と発破をかけつつ、周囲の手本となるよう自分自信も挑戦し続けていくつもりです。